南米であまり知られてないのはギアナ3国ではないでしょうか?
旅行ガイドブックは無し、地球の歩き方ブラジル・では最後に申し訳程度に各2ページ、世界244の国と地域では各4分の1ページと軽く扱われている3国のトリビアを紹介します。
スリナムは南米で仏領ギアナの次に小さく、南米で一番小さい国になります。
首都はパラマリボ。公用語はオランダ語、英語も通じます。車はガイアナと同じで左側通行。1975年にオランダから独立しました。ここに最初に手を付けたのは英国人です。ガイアナはオランダ人が最初なので始まりは今と逆でした。オランダがブレダの和約でニューアムステルダムと交換で手に入れたと豆知識に使われるのはニューヨークと名前を変えたその場所が現在世界に冠たる大都市だからに他なりません。これが寂れた町だったら話題にもなりませんよね。
In 1626, Peter Minuit, head of a Dutch trading company bought the isle of Manhattan from Indians of the Lenape tribe. The legend goes that he paid for it with a sack of full glass beads worth a total of 24 dollars!
マンハッタンはオランダの貿易会社長が24ドル相当価値のガラス玉ビーズで先住民から買い取ったという話は伝説でしかありませんが、オランダ人はここを北米毛皮貿易の拠点にしてニューアムステルダムと名付けました。そして英国人がここを侵略したのがきっかけで第2次英蘭戦争が勃発しました。戦争はオランダ優勢で進みましたが、フランスが本国のネダーラントに侵攻をはじめたので、フランスと敵対していた英国と組むことに転じて和解しました(ブレダの和約1667年)。和約でニューアムステルダムは英国に譲られニューヨークになりました。代わりにすでに英国人、オランダ人が入植していたギアナ地方のスリナムはオランダ領に。オランダは北米の小さな拠点を手放す代わりに鉱物が豊富なスリナムを手に入れ、ついでにちゃっかり香辛料貿易の拠点パンダ諸島(現在のインドネシアの一部)の領有も決定。第2次英蘭戦争は完全に英国の負けでした。その後英国はギアナを侵略し一部を取り戻しましたが、また取り戻されギアナ地方は完全にオランダの支配下になりました。スリナムにジャワ(インドネシア)系の人が多いのはオランダ人が連れてきたからです。その後さすがにオランダもナポレオンには勝てず、1814年ナポレオン戦争後のパリ条約でギアナを英国領ギアナ、オランダ領ギアナ(スリナム)、フランス領ギアナに3分割することになりました。ガイアナとスリナムは金産出国でもあります。ちなみにニューアムステルダム(Nieuw Anstrerdam)の名前はパラマリボのスリナム川をはさんだ対岸の町名に残っています。またマンハッタン北部のハーレムはかつてオランダ系移民の居住地で、祖国の町ハールレムが名祖です。
ガイアナは南米で唯一英語が公用語の国です。首都はジョージタウン。かつては南米最貧国と呼ばれていましたが、領海に大きな油田が見つかり高い経済成長を続け豊かな国になりつつあります。英国人が連れてきたインド系の人が多いです。独立前は英領ギアナと呼ばれていました。
アメリカのノースカロライナ州の州都はローリー(Raleigh)ですが、これはアメリカ植民の父ことサー・ウォルター・ローリーからとられたものです。エリザベス女王の寵臣で女王の足が濡れないように自分のマントを水たまりも上に投げた騎士として有名です。英国の北米入植が本格するのは1607年ジェームスタウン建設からですが、それ以前にローリーが派遣したノースカロライナの海岸に到着し領有宣言し、ローリーは初代バージニア総督になっています。彼は北米入植の先鞭をつけた植民の父なのです
しかしローリーが本当に欲しかったのは南米大陸でした。かの地の黄金を独占し傍若無人に振る舞うスペインを阻止したかったのです。ローリーは遠征に出ます。スペイン人がオリノコ川支流のカロニ川流域で黄金豊かなエルドラドを発見し征服に動き出したことを知ったからです。目指すはスペイン支配を逃れたインカ王族が再建したギアナ帝国の都マノア。この遠征は失敗に終わりました。しかし彼が書いた“広大で豊かで美しいギアナ帝国の発見”という冒険譚が出版されると大人気となり、オリノコ川とアマゾン川にはさまれた広大なギアナは誰にも犯さたことがないまっさらな土地は英国、オランダ、フランスの領土獲得競争の舞台となったのです。エンヤがSail away, sail away ・・・♪ と歌ったオリノコ川ですが、電気魚やピラニアがうじゃうじゃ泳ぐこわ~い川なのだそうです。
こうしてローリーが発見したオリノコ川ギアナの土地は英国が植民地を建設する権利があると認められることになります。時は進んで18世紀、英国は北米大陸とカリブ海への進出は成功しましたが、南米入植は遅れていました。そこで政府は1711年に南海会社を設立します。南米大陸の貿易独占と植民を行う特権を与えられ、国王ジョージ一世が社長になるなど国家のお墨付きの会社でした。この会社は南海バブルで有名です。議会が国債と南海株の転換を承認したため、投資家は私財を売り借金して南海株を買いまくり株価は高騰しました。しかし1年ももたずバブルははじけ、多数の自殺者が出るなど混乱を招きました。バブル崩壊の元祖です。
英国人の入植は進みましたが、スリナムの所で書いたようにオランダは勢力を強め全ギアナを支配することになります。したがって英国が正式にギアナの領有できたのはパリ条約の後になります。ナポレオン後、世界情勢は大きく変わります。英領ギアナの北にはベネズエラなる独立国が誕生しました。そして英国領ギアナとベネズエラの国境問題が生まれます。英領ギアナはオランダから割譲された土地は南北に流れるエキセボ川の東なので、ベネズエラはエキセボ川が国境線だと認識していました。妥当ですね。
エキセボ川はオリノコ川からはるか南にあります。英国はこの国境線に満足せずベネズエラの3つの地域を狙います。まずはローリーが到達したオリノコ河口、そしてまだ誰も到達したことがないロライマ山、そしてエルカジャオ金鉱地帯です。エルカジャオ金鉱地帯はオリノコ川支流のカロニ川流域でかつて黄金豊かな黄金郷エルドラドと呼ばれていた場所の周辺です。長い間忘れられていたエルドラドに本当に金が見つかったのです。
英国はベネズエラ領に国境画策を行います。ロライマ山はこの地域に多数あるテーブルマウンテンの最高峰で、英国人は数度探索を行い垂直の絶壁を登り山頂に到達、1884年に山を英国領にします。そして決して環境が良くないオリノコ河口南側に入植を進め英国に編入します。(宣言します。)念願のオリノコ川を獲得したのでしたが、これにベネズエラではない国が難癖をつけます、アメリカ合衆国です。1823年にモンロー主義を宣言していて、ヨーロッパの国は南北アメリカ大陸に干渉するんじゃね~!と提唱しました。(中南米をアメリカの裏庭とする政策です。)アメリカは戦争も覚悟で英国の政策に横やりを入れます。自国領を侵犯されたベネズエラは内戦が起こって反抗できませんでした。ワニ、ヘビ、ヒル、人食い魚等が生存するベネズエラの密林地帯を巡って米英戦争?まるで喜劇のようなことが起きようとしてたのです。
熱帯雨林の中にあるエルカジャオ金鉱は、英国領となったロライマ山から狙うことになりました。かなりの距離があるのでさすがにこれにはベネズエラが対抗しました。アメリカがモンロー主義を盾に仲介を図りますが、英国は暴走を続けます。侵略行為が白日の下にさらされ、ヨーロッパではドイツの動きが無視できなくなったこともあり、ついに仲介を受け入れます。
結果ベネズエラはエルカジャオとオリノコ河口は回復したものの、エキセボ川国境からはかなりの失地になりました。英領ギアナはロライマ山を巡りブラジルとも紛争を起こしていたので山頂はベネズエラ、ブラジル、英領ギアナで分割することになりました。山頂には三国が交わるトリプルポイントがあります。
これで現在の国境になりましたが、ベネズエラが失った土地は現在のガイアナの3分の2にあたります(斜線の部分)。エセキボ地区と呼ばれ、これを巡って現在も紛争が続いています。
ベネズエラの地図
フランス領ギアナは独立国ではなくフランスの海外県です。南米で一番小さい地域です。首都、もとい県都のカイエンヌの郊外クールーにはフランスが建設したロケット発射基地であるギアナ宇宙センターがあります。ギアナ3国では最も開発が遅れているため、自然は守られています。県の9割を占めるアマゾンの密林はエコツーリズムの楽園になっています。
またここはアンリ・シャリエールの自伝小説で映画化された“パピヨン”で有名ですね。パピヨンは仏語で蝶、胸に蝶のタトゥーを入れていたことから作者はパピヨンと呼ばれていました。映画ではスティーブ・マックイーンがパピヨンを、ダスティン・ホフマンがお供の脱獄犯ルイを演じています。映画は見ましたが、小説は読んでいません。殺人罪で仏領ギアナの流刑地に送られたパピヨンは流刑地の過酷な状況を知り、診療所で知り合った2人の脱獄常習犯と脱獄を企てます。ジャングルに逃げ込み丸太船で安全な場所まで逃げるはずでしたが・・・丸太が腐っていて役立たず。ビジョン島で集落のリーダーにボートを譲ってもらい大西洋に漕ぎだしコロンビア?の海岸に流れ着きます。そこでも安泰ではなく、色々悪さをして仲間の一人を失い、結局パピヨンは激流とサメに囲まれた絶海の孤島“悪魔島”(仏領)に送られ死を待つことになりそうでした。しかしヤシの実を袋に詰めて浮き袋を作る方法を考え、島に残る盟友ルイを残し見事潮に乗っかって脱出します。映画はここで終わります。簡単に要約しましたが映画も小説もシャリエールの実体験をもとにしたフィクションです。脱獄の過酷さ、脱獄仲間との友情と別れ、流れ着いた集落の人々と交流、女性と愛もあり、スリルと感動を与えてくれる作品となりました。映画に登場する囚人の多くは実在の人物だそうです。パピヨンの映画は2017年にリメークも作られています。
その後の話し(ここからは事実です。)シャリエール(パピヨン)は密林茂る仏領ギアナ本土に流れ着き、そこから英領ギアナの首都ジョージタウンに逃げ込みます。英国植民地政府はシャリエールに自由人の身分を与えます。しかし英領ギアナでの暮らしはシャリエールの性に合わず、同じ思いをもつフランス人と共にベネズエラに再び逃亡。バリア半島に到着します。島の住民は親切で食べ物や着るものを与えてくれました。やがてシャリエール達フランス人の存在は官憲に知られ不法侵入で逮捕され、エルドラド刑務所に送られます。刑務所はカリバやピラニアなどの肉食魚や電気魚がうようよいる河の真ん中にある島にあり、脱走は不可能でした。計14年にわたる服役生活を経てシャリエールは釈放され、ベネズエラの市民権を手に入れ、地元の女性と結婚。ベネズエラのカラカスとマラカイボでレストランを経営し、その後フランスに帰国して“パピヨン”を出版、パピヨンが映画公開された1973年に亡くなっています。また映画観たくなりました。すみません、仏領ギアナはネタがなく映画の話になってしまった(>_<)。
最後まで読んでくれたみなさま、どうもありがとうございました。( ᴗ̤ .̮ ᴗ̤人)