Meet You at Hard Rock Cafe ハードロックカフェ

世界ハードロックカフェ訪問記とトリビア

HRC Tee Shirts Gallery ②

HRC Tシャツコレクション 日本編

そこに行かなければゲットできないHRCTシャツ。手持ちのコレクションを少し披露します。

 

東京六本木

以前5年間、ここから歩いて数分のオフィスで働いておりました。

ここはインバウンド客多いです。シティTはこの他にも新しいのが出てますが、あまりデザインが良くなかったので購入しておりません。セントパトリックデイのTシャツは頻繁に出ますが、1998年版がお気に入りです。

 

東京上野駅

ここは繁盛してますね~。

 

上野駅限定Tと浅草ロックショップ

浅草ショップは大失敗。浅草でもちょっと目立たない場所でしたから。

 

成田市内                成田空港

空港のロックショップ、期間限定だったみたいです。

 

横浜

みなとみらいにはしばらく行ってません(>_<) 現在改装中ですが、改装が終わったら行きたいです。

 

名古屋

 

大阪本町

残念ながら閉店になりました。アクセス良しで、ある意味東京より日本を代表するお店でした。

 

 

大阪           大阪            ユニバーサルスタジオ

 

京都    Rock Shop で新シティティーをゲットしました。

2019バージョン      2024 New City Tee  2                2024 New City Tee 1

 

神戸は懐かしいですね。

ユニバーサルスタジオ    神戸           神戸

神戸           神戸            神戸

 

福岡

 

こうやって、並べて見てみると日本のTのデザインはなんかイマイチのような気がします。

 

Hard Rock Café 閉店がない国

近年閉店が多いハードロックカフェですが、4店以上ある国で開店以来一度も閉店していない国があります。

 

それはポーランド

 

ワルシャワクラクフ、グダンスク、ヴラツラフ 4店とも開店以来同じ場所で営業を続けています。この4都市はいずれも魅力的な観光地です。Franchisee がしっかりしているのでしょう。この国のビール、めっちゃおいしいです。アサヒ飲料傘下のZubr, Tyskie, Lech ハイネケン傘下のZywiec が有名です。アサヒビールさんには輸入ビール販売してもらいたいですね。Zywiecが一番好きです。

   Krakow                                                               Gdnsk

      Warsaw                                                          Wroclow

ポーランド経済は高成長を続けています。ウクライナの隣国ということが投資流入につながり、いずれ欧州の大国になると言われる注目の国です。

 

そしてドイツ、同じくビールがおいしい国です。

 

ベルリン (1992年開店、2010年4月に現在のクーダム通りに引越ました。) ミュンヘン、ケルン、ハンブルグ。  ドイツは他にも魅力的な町がたくさんあるので新規開店を期待してます。

Berlin                                                               Cologne

Hamburg                                                         Munich

 

南アフリカは昨年まで好成績でした、ケープタウン(1996年開店、2001年に閉店、2017年再開)ヨハネスブルグプレトリアサンシティ。残念ながら2024年1月にプレトリアが閉店してしまいました。

 

2024年は京都、トロントマドリッド等がリオープンの予定です。楽しみですね。

Hard Rock Cafe巡り小旅行2024

 

2024年の初海外旅行でマニラに行ってきました。3回目の訪問です。

 

1/19  NH869  HND-MNL 9:35-13-35

1/21  NH820  MNL-NRT 9:45-15:00

 

一般にマニラというとメトロマニラという16の市からなる人口1300万人越えの首都圏を指します。首都圏は治安の悪い場所やスラム街も含むので危ない街みたいに言われたりしますが、危険な地域を避ければ他の東南アジアの大都市同様快適に旅行できます。

Metro Manila Map

 

首都圏の真ん中あたりに位置するマカティ市(人口約63万人)はお金持ちが住む商業の中心地ですが、お高くとまったところがなくフレンドリーな街です。そしてネームバリューがあります。フィリピン最初のHRCもManilaではなくMakati店です。1995年開店、2017年に閉店しましたが、2020年に再オープンしました。閉店前に一度行ってますが、シン店は今回初訪問です。Light Rail Ayala駅の近くの大きなモールGloriettaの中にあり、近くにホテル、レストラン高級店なんでもあります。目抜き通りのAyala Avenue は高層ビルが並ぶオフィス通り、マカティは東南アジア屈指の近代都市であります。

                 HRC Makati                                                     

アヤラ通り               トリプルポイント

アラヤ                 フィリピン証券取引所跡地。現在はタギグ 

                   (Taguig)地区に移転しています。

 

マカティ観光の後はマニラの観光スポットが集まるマニラ地区を探索しました。マカティがあるAyala駅からMRT Line3で2駅目の終点Taft Avenue駅まで行き、そこから高架道でつながっているLRT Line1のEDSA駅へ移動。そこから6駅先のUnited Nations駅で降りるとマニラ地区。メトロマニラは高架鉄道が4本運行されていています。使い勝手はあまり良くないですが料金が安いのでいつも混雑してます。現在地下鉄を建設中で日本企業も多く参加しています。

                マニラ大聖堂

リサール公園                国立美術館

 

マニラ地区の南は治安が悪いエルミタ地区なので要注意です。観光案内の客引きのしつこい勧誘を振り切りざっくり観光した後、LRTでEDSA駅まで戻り、そこから2.5kmのSM Mall of Asiaまで歩きました。大きな道路C4を西へ海に向かって進むだけなので簡単です。Hard Rock Café Manilaはここにあります。Mall of Asiaは世界で6番目に大きいショッピングモールなので、迷子になりそうです。HRC Manilaはモールの突き抜け海側の出口に出て、海を向こうに左側(南)に進みモールの端コンラッドホテルが入っているビルの2階の高級レストランフロアにあります。ここはメトロマニラのパサイ市(Pasay)ですが、マニラ店ということになってます。パサイも治安がいいです。だからHRCが営業してるのですね。帰りも同じ道でMRTでTaft Avenue駅からAyalaまで帰りました。

                HRC Manila

Quirino Grandstand           Mall of Asia のシンボル

今回も宿泊ホテルはHoliday Inn Makati  近くに大きなスーパーマーケットあるので食料を買って旅行を締めました。フィリピンのビールはサンミゲル。写真は一番値段が高いプレミアムビールです。Manila City Teeはニューバージョンではなく5年前と同じでした。

 

おまけ “おしゃれフリーク”(Le Freak) by Chic on ベストヒットUSAタイムマシーンスペシャ

 

洋楽番組ベストヒットUSAは2003年に復活してからずっと続いてる長寿番組です。ANAの国際線ビデオプログラムの“ANA presents ベストヒットUSAタイムマシーンスペシャル”も長く続いています。(2か月毎に更新)

MCの小林克也さんは82歳なのに未だに英語が上手いすごいお方です。今回機内番組で最初の曲に面白い話を披露してくれました。後で調べたらウイキペディアにも同じようなエピソードが載ってました。

 

時は1977年の年の瀬、ニューヨーク54丁目にあるStudio 54は有名人、または招待客しか入れないスノビッシュなディスコ。ナイル・ロジャースと故バーナー・エドワーズはアフリカ系モデルで歌手のグレース・ジョーンズとミーティングの為、彼女から招待を受けタキシードと蝶ネクタイ姿でやってきました。しかし、入口でスタッフが“そんな話は聞いてまへん。入場はお断りやっ!”

二人は“え~、おたくでかけてる曲、俺たちが作ったんだよ。俺たちChicだよ。”

しかしスタッフは“あきまへん、とっとと消え失せろっ!!”

これに二人は激怒。やるせなさで、じゃっ今日はスタジオに入ってなんか曲作ろうということになりました。Studio 54のスタッフが言った”Fuck off!” (消え失せろっ!)をリフレインに使うつもりでしたが この汚い言葉を曲に使うのは忍びないので代わりにFreak out !(この野郎!)を使い、おしゃれにフランス語の冠詞leをつけてLe Freak を曲名としました。(freakは男性名詞ですかとか、面倒くさいこと言わないように)こうして出来上がったディスコソングは全世界で1200万枚以上売れ、だれもが知っている曲になりました。Studio 54 は現在劇場に改装されています。彼らが入場できなかった理由はグレースがスタッフに伝えるのを忘れたからだそうです。

この曲をリアルタイムで聞いてから36年になりますが、こんな話知りませんでした。

歌詞には"Just come down to the 54"(来いよっ、54まで)とちゃっかりStudio 54が入っています。 

 

おわり

2023年を振り返って。

今年訪れたHRCは21でした。

Santiago  Buenos Aires Ezeiza Airport    Ushuaia   Iguaz Airport   Florianopolis   Gramado

Kathmandu  Dubrovnik    Verona     Milan   Wroclaw     Yerevan      Ayia Napa  

Piccadilly Circus  New Castle    Edinburgh   Tromsø Suriname   Guyana

Kuala Lumpur Airport    Ipoh

フライトで貯めたマイルはANA便153,133、 スタアラ便24,038でした。

プレミアムポイントは年後半の2倍キャンペーンのおかげで158,477(うちANA便 135,096)と過去最高を更新しました。

 

ブログを始めたのは2020年ですが、コロナで出足をくじかれ思うように進められなかったです。2023年は以前ほどはないですがたくさん旅行に行き、やっと投稿も多くできました。

ブログに訪れたみなさま、どうもありがとうございました。来年もHRC旅行を続け、あまり役に立たない話などを添えたいと思ってます。時間があれば、お立ち寄りください。

2024年には京都店リオープンの噂もあります。

 

Happy New Year !

旅先でお買い物

普段は国際線機内販売で買い物なんてしないのですが、今年(2023年)は2回もしてしまいました。

 

アクアスキュータムの傘とマフラー、ANA機内販売限定品です。Aquascutum は好きなブランドです。(ファッションには疎いのですが・・)英国の老舗メーカーでコート(持ってます)ではバーバリーを凌いでいたのですが、1990年に経営不振で日本のレナウンへ売却、レナウンもつぶれ、その後何度か売却されて今は中国のグループ傘下に入っています。ブランドは残り続けてほしいです。ロンドンにいくつか直営店あります。マフラーは買ったばかりですが、傘はコンパクトで重宝しています。

 

海外旅行先ではTシャツばかり買っています。同僚へのお土産、キーホルダー等の小物、Tシャツ以外、ほとんど買い物はしません。荷物が増えるからです。

 

とはいえ、旅行中に買って今も愛用しているものもあります。

 

2006年にシンガポールチャンギ空港のショップで買ったレスポートサック(Lesportsac)のバックパック 縦53㎝、横35㎝で結構大きいのですがナイロン製で軽く、折りたたんだ状態で買ったので大きな荷物になりませんでした。現在レスポートサックはこのタイプのバックパック売ってないので貴重だと思います。

とても気に入っていて2006年から2018年までこのバックパック一つで海外旅行していました。場所によっては背中にしょってるとナイフで切られる恐れがあるので、前に抱えていたことも多かったです。目立つので、見知らぬ人から“そのバッグいいね(I like your bag)”と何度か言われたことがあります。現在はこのバッグは休養中、今はもう少し丈夫なHerschelのバックパック使っています。

 

2019年にアンドラ(Andorra) スペインとフランスの間にある小国で買ったダウンジャケット。アンドラは免税の国、90ユーロで安かったので買いました。EUR/JPY=120 だった時です。2月だったのでそれまで着ていた古い似非もこもこジャケットを捨ててこれを着て旅行を続けました。

 

今年(2023年)カトマンズで買った薄手のカシミールのセーター。カシミールのセーターは厚手だけではないのです。11月になって早速着てみました。薄いのに結構暖かいです、Tシャツの上に着ても肌触りに問題ありません。手作りです。(HAND MADE IN NEPAL) ユニクロでも同じようなの買えますが・・・。

 

2017年にウランバートルで買ったネックウオーマー。モンゴルっぽいです。もちろんMade in Mongolia とても暖かいです。

 

2022年にラパスで買ったアルパカ毛糸の手袋。Product of Bolivia はめ心地good!

 

2011年にフィレンツェの露店で買ったストール?。あまりに大きいのでひざ掛けにも使えます。

 

すべて購入した時の状況は覚えています。ハードロックカフェのTシャツは多すぎて覚えてません。冬物が多いですね。Google Photoは昔写真を撮った日と場所を覚えていて、その日になるとxx年前の思い出を教えてくれますが、冬になってマフラーやセーター等を身に着けると旅の思い出をよみがえります。

 

さてマライア・キャリーのあの曲の季節になりましたね。紀行2022②を参照。

 

終わり。

 

海外Hard Rock Cafe紀行2023 番外編

マレーシアのイポー(Ipoh)に行ってきました。

 

10月のANAのLA行はクアラルンプール発券(KUL-HND-LAX-HND-KUL)でした。最後のレッグHND-KUL NH885 11/18  00:05-06:45に乗ってKLに到着。KL発券の時はいつもマレーシアに入国しないで8時間空港で過ごして帰っていましたが、今回は入国してクアラルンプールからイポーに行ってきました。

HRC Ipoh 開店は12月になったのでちょっと早かったですね。しかしRock Shopは営業しています。

イポーはクアラルンプールの北200km超にあるマレーシア第2の都市です。

 

空港からKL Sentral駅に行ってそこからイポーまでETS(長距離列車)を使いたかったのですが、すべて予約が埋まっていて断念。(マレーシアの列車は全て予約制、知ったのが出発の数日前です。スペインやイタリアも完全予約制ですが・・・)

KLに到着前はイポーをあきらめてKL観光するつもりでした。とりあえずKLIA1(KLIA = Kuala Lumpur International Airport) からKLIA2へ移ってKILA2を探索することにしてバス乗り場に行ったら、イポー行8:45のバスがありました。窓口で尋ねたらまだ空きがあるとのことでチケット買いました。バスは全席指定です。所要3時間40分で列車よりは時間がかかりますが、イポーに向けて出発。直行便だと思ったら途中のKL郊外のバスステーション2つを経由、途中軽い渋滞などがありイポー到着12:40と4時間近くかかりました。イポーのバスターミナル(Amanjaya)は市街から10km以上離れたところにあります。大きなターミナルビルで周辺は中南米のそれとは違い治安も良さそうでした。この日はKLに宿を予約してるのでKLに戻りの便が気になり掲示板の表示を待ったら15:30のKL Sentral 行きと16:00のKILA行があり、それより以降のKL方面行は18~19時台でした。4時間かかっても当日チェックインはできそうです。バスターミナルからタクシーを使ったのですがHRC Rock Shop の住所に行ってもらったら運転手と住所どちらか間違ったのか違う場所に着いたみたいです。結構おしゃれなレストランがあるところなのでshopの場所を聞いてみたらそこから徒歩15分とのこと。Google map を頼りに向かいましたが結局30分もかかりました。無事ロックショップに到着。シティTありました~。カフェもこの場所で開店するみたいです。

周辺は結構レストランやショップが立ち並ぶおしゃれなエリアでした。バスターミナルまで車で30分くらいかかるので、探索はそこそこにして戻ることにします。なかなか捕まらなかったタクシーをやっと見つけてターミナル到着15:35。16:00のKLIA便には間に合いました、そしてなにより席が空いてて良かった。KLではGrab使えないので頭になかったのですがイポーは使えたみたいなのでGrabにしたら良かったかもです。帰りのバスは3時間40分で無事に空港到着。マレーシアの高速道路が整備されているおかげですね。

イポー市街               HRC Rock Shop Ipoh

 

空港のフードコートでマレーシア風チキンライスを食べ、KLIA ExpressでKL Sentralまで行きモノレールに乗り換えて無事Holiday Inn Express City Centre(場所はブギビンタンの近くラジャチュラン)にたどり着きました。イスラム圏は朝食の定番ベーコン(豚肉)がないのが難ですが、ここは朝食ビュッフェにヌードルコーナーがあって良かったです。電車では日本人の若者が多かったです。マレーシアは物価が高くないので人気があるんですかね。イポー弾丸ツアーはこれにて終了。マレーシアは経済成長が続いて中国並みの経済水準にあります。KL訪問は6年ぶりですが、街の近代化を目にしてマレーシア念願の先進国入りも遠くないと感じました。翌日はANAの886便14:15で帰国。行きの885便と同じクルーでした。KLで1泊なのでしょう。HRC Kuala Lumpur Airportも営業中です。

 

2023年のHRC旅行はこれにて終了。行ってない所が少なくなってきましたが、2024年も続けるつもりです。

ギアナ3国のトリビア

南米であまり知られてないのはギアナ3国ではないでしょうか?

旅行ガイドブックは無し、地球の歩き方ブラジル・では最後に申し訳程度に各2ページ、世界244の国と地域では各4分の1ページと軽く扱われている3国のトリビアを紹介します。

ガイアナ          スリナム         フランス領ギアナ

 

 

スリナムは南米で仏領ギアナの次に小さく、南米で一番小さい国になります。

首都はパラマリボ公用語オランダ語、英語も通じます。車はガイアナと同じで左側通行。1975年にオランダから独立しました。ここに最初に手を付けたのは英国人です。ガイアナはオランダ人が最初なので始まりは今と逆でした。オランダがブレダの和約でニューアムステルダムと交換で手に入れたと豆知識に使われるのはニューヨークと名前を変えたその場所が現在世界に冠たる大都市だからに他なりません。これが寂れた町だったら話題にもなりませんよね。

In 1626, Peter Minuit, head of a Dutch trading company bought the isle of Manhattan from Indians of the Lenape tribe. The legend goes that he paid for it with a sack of full glass beads worth a total of 24 dollars!

マンハッタンはオランダの貿易会社長が24ドル相当価値のガラス玉ビーズで先住民から買い取ったという話は伝説でしかありませんが、オランダ人はここを北米毛皮貿易の拠点にしてニューアムステルダムと名付けました。そして英国人がここを侵略したのがきっかけで第2次英蘭戦争が勃発しました。戦争はオランダ優勢で進みましたが、フランスが本国のネダーラントに侵攻をはじめたので、フランスと敵対していた英国と組むことに転じて和解しました(ブレダの和約1667年)。和約でニューアムステルダムは英国に譲られニューヨークになりました。代わりにすでに英国人、オランダ人が入植していたギアナ地方のスリナムはオランダ領に。オランダは北米の小さな拠点を手放す代わりに鉱物が豊富なスリナムを手に入れ、ついでにちゃっかり香辛料貿易の拠点パンダ諸島(現在のインドネシアの一部)の領有も決定。第2次英蘭戦争は完全に英国の負けでした。その後英国はギアナを侵略し一部を取り戻しましたが、また取り戻されギアナ地方は完全にオランダの支配下になりました。スリナムにジャワ(インドネシア)系の人が多いのはオランダ人が連れてきたからです。その後さすがにオランダもナポレオンには勝てず、1814年ナポレオン戦争後のパリ条約でギアナを英国領ギアナ、オランダ領ギアナスリナム)、フランス領ギアナに3分割することになりました。ガイアナスリナムは金産出国でもあります。ちなみにニューアムステルダム(Nieuw Anstrerdam)の名前はパラマリボスリナム川をはさんだ対岸の町名に残っています。またマンハッタン北部のハーレムはかつてオランダ系移民の居住地で、祖国の町ハールレムが名祖です。

 

ガイアナは南米で唯一英語が公用語の国です。首都はジョージタウン。かつては南米最貧国と呼ばれていましたが、領海に大きな油田が見つかり高い経済成長を続け豊かな国になりつつあります。英国人が連れてきたインド系の人が多いです。独立前は英領ギアナと呼ばれていました。

アメリカのノースカロライナ州の州都はローリー(Raleigh)ですが、これはアメリカ植民の父ことサー・ウォルター・ローリーからとられたものです。エリザベス女王の寵臣で女王の足が濡れないように自分のマントを水たまりも上に投げた騎士として有名です。英国の北米入植が本格するのは1607年ジェームスタウン建設からですが、それ以前にローリーが派遣したノースカロライナの海岸に到着し領有宣言し、ローリーは初代バージニア総督になっています。彼は北米入植の先鞭をつけた植民の父なのです

しかしローリーが本当に欲しかったのは南米大陸でした。かの地の黄金を独占し傍若無人に振る舞うスペインを阻止したかったのです。ローリーは遠征に出ます。スペイン人がオリノコ川支流のカロニ川流域で黄金豊かなエルドラドを発見し征服に動き出したことを知ったからです。目指すはスペイン支配を逃れたインカ王族が再建したギアナ帝国の都マノア。この遠征は失敗に終わりました。しかし彼が書いた“広大で豊かで美しいギアナ帝国の発見”という冒険譚が出版されると大人気となり、オリノコ川アマゾン川にはさまれた広大なギアナは誰にも犯さたことがないまっさらな土地は英国、オランダ、フランスの領土獲得競争の舞台となったのです。エンヤがSail away, sail away ・・・♪ と歌ったオリノコ川ですが、電気魚やピラニアがうじゃうじゃ泳ぐこわ~い川なのだそうです。

こうしてローリーが発見したオリノコ川ギアナの土地は英国が植民地を建設する権利があると認められることになります。時は進んで18世紀、英国は北米大陸カリブ海への進出は成功しましたが、南米入植は遅れていました。そこで政府は1711年に南海会社を設立します。南米大陸の貿易独占と植民を行う特権を与えられ、国王ジョージ一世が社長になるなど国家のお墨付きの会社でした。この会社は南海バブルで有名です。議会が国債と南海株の転換を承認したため、投資家は私財を売り借金して南海株を買いまくり株価は高騰しました。しかし1年ももたずバブルははじけ、多数の自殺者が出るなど混乱を招きました。バブル崩壊の元祖です。

 

英国人の入植は進みましたが、スリナムの所で書いたようにオランダは勢力を強め全ギアナを支配することになります。したがって英国が正式にギアナの領有できたのはパリ条約の後になります。ナポレオン後、世界情勢は大きく変わります。英領ギアナの北にはベネズエラなる独立国が誕生しました。そして英国領ギアナベネズエラの国境問題が生まれます。英領ギアナはオランダから割譲された土地は南北に流れるエキセボ川の東なので、ベネズエラはエキセボ川が国境線だと認識していました。妥当ですね。

エキセボ川はオリノコ川からはるか南にあります。英国はこの国境線に満足せずベネズエラの3つの地域を狙います。まずはローリーが到達したオリノコ河口、そしてまだ誰も到達したことがないロライマ山、そしてエルカジャオ金鉱地帯です。エルカジャオ金鉱地帯はオリノコ川支流のカロニ川流域でかつて黄金豊かな黄金郷エルドラドと呼ばれていた場所の周辺です。長い間忘れられていたエルドラドに本当に金が見つかったのです。

英国はベネズエラ領に国境画策を行います。ロライマ山はこの地域に多数あるテーブルマウンテンの最高峰で、英国人は数度探索を行い垂直の絶壁を登り山頂に到達、1884年に山を英国領にします。そして決して環境が良くないオリノコ河口南側に入植を進め英国に編入します。(宣言します。)念願のオリノコ川を獲得したのでしたが、これにベネズエラではない国が難癖をつけます、アメリカ合衆国です。1823年にモンロー主義を宣言していて、ヨーロッパの国は南北アメリカ大陸に干渉するんじゃね~!と提唱しました。(中南米アメリカの裏庭とする政策です。)アメリカは戦争も覚悟で英国の政策に横やりを入れます。自国領を侵犯されたベネズエラは内戦が起こって反抗できませんでした。ワニ、ヘビ、ヒル、人食い魚等が生存するベネズエラの密林地帯を巡って米英戦争?まるで喜劇のようなことが起きようとしてたのです。

熱帯雨林の中にあるエルカジャオ金鉱は、英国領となったロライマ山から狙うことになりました。かなりの距離があるのでさすがにこれにはベネズエラが対抗しました。アメリカがモンロー主義を盾に仲介を図りますが、英国は暴走を続けます。侵略行為が白日の下にさらされ、ヨーロッパではドイツの動きが無視できなくなったこともあり、ついに仲介を受け入れます。

結果ベネズエラはエルカジャオとオリノコ河口は回復したものの、エキセボ川国境からはかなりの失地になりました。英領ギアナはロライマ山を巡りブラジルとも紛争を起こしていたので山頂はベネズエラ、ブラジル、英領ギアナで分割することになりました。山頂には三国が交わるトリプルポイントがあります。

これで現在の国境になりましたが、ベネズエラが失った土地は現在のガイアナの3分の2にあたります(斜線の部分)。エセキボ地区と呼ばれ、これを巡って現在も紛争が続いています。

ベネズエラの地図

 

フランス領ギアナは独立国ではなくフランスの海外県です。南米で一番小さい地域です。首都、もとい県都カイエンヌの郊外クールーにはフランスが建設したロケット発射基地であるギアナ宇宙センターがあります。ギアナ3国では最も開発が遅れているため、自然は守られています。県の9割を占めるアマゾンの密林はエコツーリズムの楽園になっています。

またここはアンリ・シャリエールの自伝小説で映画化された“パピヨン”で有名ですね。パピヨンは仏語で蝶、胸に蝶のタトゥーを入れていたことから作者はパピヨンと呼ばれていました。映画ではスティーブ・マックイーンパピヨンを、ダスティン・ホフマンがお供の脱獄犯ルイを演じています。映画は見ましたが、小説は読んでいません。殺人罪で仏領ギアナ流刑地に送られたパピヨン流刑地の過酷な状況を知り、診療所で知り合った2人の脱獄常習犯と脱獄を企てます。ジャングルに逃げ込み丸太船で安全な場所まで逃げるはずでしたが・・・丸太が腐っていて役立たず。ビジョン島で集落のリーダーにボートを譲ってもらい大西洋に漕ぎだしコロンビア?の海岸に流れ着きます。そこでも安泰ではなく、色々悪さをして仲間の一人を失い、結局パピヨンは激流とサメに囲まれた絶海の孤島“悪魔島”(仏領)に送られ死を待つことになりそうでした。しかしヤシの実を袋に詰めて浮き袋を作る方法を考え、島に残る盟友ルイを残し見事潮に乗っかって脱出します。映画はここで終わります。簡単に要約しましたが映画も小説もシャリエールの実体験をもとにしたフィクションです。脱獄の過酷さ、脱獄仲間との友情と別れ、流れ着いた集落の人々と交流、女性と愛もあり、スリルと感動を与えてくれる作品となりました。映画に登場する囚人の多くは実在の人物だそうです。パピヨンの映画は2017年にリメークも作られています。

 

その後の話し(ここからは事実です。)シャリエール(パピヨン)は密林茂る仏領ギアナ本土に流れ着き、そこから英領ギアナの首都ジョージタウンに逃げ込みます。英国植民地政府はシャリエールに自由人の身分を与えます。しかし英領ギアナでの暮らしはシャリエールの性に合わず、同じ思いをもつフランス人と共にベネズエラに再び逃亡。バリア半島に到着します。島の住民は親切で食べ物や着るものを与えてくれました。やがてシャリエール達フランス人の存在は官憲に知られ不法侵入で逮捕され、エルドラド刑務所に送られます。刑務所はカリバやピラニアなどの肉食魚や電気魚がうようよいる河の真ん中にある島にあり、脱走は不可能でした。計14年にわたる服役生活を経てシャリエールは釈放され、ベネズエラの市民権を手に入れ、地元の女性と結婚。ベネズエラのカラカスとマラカイボでレストランを経営し、その後フランスに帰国して“パピヨン”を出版、パピヨンが映画公開された1973年に亡くなっています。また映画観たくなりました。すみません、仏領ギアナはネタがなく映画の話になってしまった(>_<)。

 

最後まで読んでくれたみなさま、どうもありがとうございました。‬( ᴗ̤ .̮ ᴗ̤人)